合気道の創始者である植芝盛平(うえしば もりへい)と大本(特に聖師・出口王仁三郎)の関係


合気道の創始者である植芝盛平(うえしば もりへい)と大本(特に聖師・出口王仁三郎)の関係は、「武道家・植芝盛平の精神的・思想的根幹を形作った師弟関係」であり、合気道という新しい武道が誕生するうえで最も決定的な影響を与えた関係です。 

この両者の関係性について、主なポイントを4つの視点から解説します。 

1. 出会いと綾部への移住(宗教的開眼) 

1919年(大正8年)、盛平は危篤の父の平癒を祈るため、大本の本部がある京都・綾部を訪れ、出口王仁三郎に出会いました。 

  • 父の死と綾部移住: 王仁三郎から「お父さんはこれで良いのだ(天寿を全うした)」と諭され、父の死後、盛平は家族を連れて綾部に移住し、大本に入信しました。 
  • 「植芝塾」の開設: 王仁三郎は盛平の武道(当時は武田惣角に学んだ大東流合気柔術)の才能を見抜き、「武道を天職とし、神人一如の新しい武道をつくりなさい」と勧めました。王仁三郎の後押しにより教団内に「植芝塾」が開設され、これが合気道の原点となりました。 

2. 「満蒙行き」での死線を越えた体験 

1924年(大正13年)、王仁三郎が理想郷建設を目指して実行した命がけの満州・モンゴル遠征(満蒙行き)に、盛平は身辺警護(用心棒)として同行しました。 

  • 銃殺寸前の九死に一生: 現地で軍閥・張作霖の軍勢に捕らえられ、死刑宣告を受けて引き回されるという極限状態を経験しました(直前で日本領事館の交渉により救援)。 
  • 直感・霊感の開花: この「死線」を潜り抜けた経験により、盛平の五感と霊的直感が研ぎ澄まされ、「相手の放つ弾丸や攻撃の気配(弾道)が光の線のように見えてかわせるようになった」といった直感的境地に至ったと伝えられています。 

3. 合気道の思想(万有愛護・和合)への影響 

盛平は大本で学んだ言霊(ことだま)の思想や、王仁三郎の説く「愛善(万教同根・万有愛護)」の教えを自らの武道に全面的に取り入れました。 

  • 「倒す武」から「和合の武」へ: 従来の武術のような「相手を打ち負かす・傷つける武」ではなく、「宇宙の理と一体化し、すべての生命を育み愛する武(和の武道)」という合気道の哲学的骨組みは、大本神道思想そのものが反映されています。 
  • 「合気」という名称: 武術の名称として「合気武術」と呼ぶよう進言・命名したのも王仁三郎でした。 

4. 東京進出と「大日本武道宣揚会」 

1927年(昭和2年)、王仁三郎の勧めもあり、盛平は活動の拠点を東京へ移します。 

  • 武道宣揚会の会長就任: 1932年(昭和7年)、王仁三郎が結成した「大日本武道宣揚会」の会長に盛平が就任し、武道を通じて大本の精神を広める活動を行いました。 
  • 第二次大本事件での難避: 1935年の第二次大本事件(国家による大本への大弾圧)の際、盛平自身も警察からマークされましたが、東京の政財界や陸海軍幹部に有力な門下生・理解者が多数いたことや、王仁三郎があらかじめ盛平を教団の直接の組織網から離れさせていたことなどもあり、捕縛を免れました。 

まとめ 

植芝盛平にとって出口王仁三郎は、「人生の迷いを救い、技に真の魂と思想を吹き込んでくれた最大の師」であり、大本という宗教運動は「合気道が技術的な武術から『哲学・精神道徳』へと進化するための母胎」でした。 

今日でも、合気道道場において「和合」や「愛」が説かれ、神前への礼が行われる背景には、この大本と王仁三郎との深い歴史的・精神的結びつきが存在しています。 


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