闘争・平等・そして調和へ ── 人類史のゆくえ
人類の歩みは、遺伝子に刻まれた「闘争」から始まった。 限られた資源を巡る生存競争のなかで、血縁集団を守り、見知らぬ外敵を退ける冷酷な排他性は、原始の荒野を生き延びるための不可避な適応戦略であった。共感や団結といった美徳でさえ、仲間を守るための反作用として外部への攻撃性を高め、歴史を絶え間ない紛争と覇権争いへと駆り立ててきた。
この悲劇的な葛藤を乗り越えるべく、人類は近代において「平等」という至高の概念に到達した。 法の下の平等や機会の平等は、強者の暴走を抑え、あらゆる命に等しい尊厳を与えるための強力な社会装置であった。しかし、平道を過剰に推し進めた社会は、やがて「違い」を削ぎ落とす画一化への不全と、同じスタートラインに立たされたことによる終わりなき比較と葛藤という二重のジレンマに突き当たった。違いを消し去ることで得られる平坦な平道は、人間が本来抱える多様で豊かな個性を摩擦の種に変えてしまったのである。
そして今、不調和と分断の構造が行き着くところまで達しようとする現在、人類は「平道のその先」にある「調和」の境地へと視線を向けねばならない。
調和とは、全員を同じ型にはめることではなく、不均衡と違いを前提としながら、互いの固有の働きを響き合わせる「高度なシステム最適」である。それは、生物多様性が豊かな森林のように、また多様な楽器がそれぞれの音色を奏でるオーケストラのように、個々の不均一な個性が全体として最小の摩擦と最大の生命力を生み出す最高効率の構造である。
この調和を可能にするのは、政治的・経済的な制度論にとどまらず、すべての命、すべての存在に欠かすことのできない「固有の働き(神性)」が宿っているという根本的な精神の共有(生命のプロトコル)に他ならない。一神即多神──「根本はひとつでありながら、現れは多様である」というこの普遍的な理に目覚めるとき、人類は他者を排除する遺伝の呪縛を解き、強制的な均一化の重圧からも解放される。
闘争によって個を鋭利に研ぎ澄まし、平等によって暴力と搾取を抑制し、そして調和によってその多様な個をひとつに響かせ合う。 人類が旧来の不調和なシステムの破綻を通り抜け、この「調和の道徳」をみずからの生き方として自律的に体現したとき、人類史は真の成熟の時代を迎えることになる。